黒酢の歴史
島津藩政時代の福山は、中国や琉球の産物が鹿児島へ入ってきて宮崎へ流れていくその中継地の商業地として大変なにぎわいをみせていました。文政二年、今から二百年程前、中国からきた一人の商人が福山の竹之下松兵衛という人に米で酢ができることを教えたのが始まりであると伝えられています。福山酢は略して山酢とも言われますが、以前はこの黒酢のことをアマンともいっていました。中国の福健省にアモイというところがあり、そのアモイも米の集積地として米から酢を作っていました。酢づくりを伝えてくれた商人がきっとアモイの人でそれがなまってアマンと呼ばれるようになったと思われます。その黒酢づくりを福山の土地が今日まで守ってこれたのは、原料の米が豊富だったこと、よい酢づくりには欠かせない自然の水と恵まれた気候などこの地が酢づくりの条件に適していたからでしょう。